![]() 上下巻7時間で読み終えました。 あ〜終わってしまった。残念です。 内容と言えば「何人…………なんだ!」と、怒っている方々もいるかと思いますが、 ワシは満足でした…。 ワシの想像力を多いにフル回転させてくれたこの本にありがとう、そんな感じでしょうか。 英語版は5巻から全く読めていません(笑) はよ、読めっちゅうねんね。 |
![]() 「ノルウェイの森」。この本を読んだのは初版本発行時で、私が専門学校1年の18歳の時だった。 この本は主人公が18歳の時から始まり「38歳のボク」がそれを追想することから物語は語られる。 文庫は1997年にすでに出ているのだが、2004年講談社文庫の新装版になっていたらしい。 気付いてはいた。3年程は気にも止めなかったが、先日当時と変わらぬ「赤と緑」の装丁から目が離せなくなり、ハード本も持っているにも関らず、半身浴のお供にと文庫本を買った。 読み返している途中できづいたのだが、当時主人公の年齢に合わせて「自分が38歳になったら、もう一度この本を読み返そう」と思った事を、ふと思い出した。 そんな誓いも忘れていたが唐突に思い出すものである。 そして今、「38歳の自分」がこの本を読んでいる。 そんな潜在意識にも「やっぱり読むことになっていたのかな」という想いがする。 全然違う感覚で今読み進めている。 当時はこの本に対する何かしらの「憧れの誤解」が頭を駆け巡り、ストーリーの中心に当たる1969年の(私が生まれた年だ)幻想を読んでいるかのようだった。 どこか寂しげな主人公の印象を「格好良さ」と勘違いしたのだと思う。 この頃は社会に出たばかりで、「人間的格好良さ」を勘違いした、年上だというだけで必要以上にギュウギュウと意見押し付ける人達に出会い過ぎた。 尊敬もしていない師匠でもない人にズカズカと踏み込まれ辟易とする、どんな人でもこういう経験があるんではないだろうか。 今となればこういう人は、人が嫌がる事を言う事でしか人との接点が保てない人種だったのだと理解が出来る。わたしにとっても「必要悪」だったのだろう。 そのせいでようやく分かって来たのか。 人というのは自分にとっての「いらないモノ」の選択をするうちに、私の年代頃でようやく「大事なモノを守る」という意味や、「情緒不安定」という言葉は、冷静に慎重に解釈すべきだという事に気付くのかなと。 村上さんにとっても主人公は38歳であるべきだったのかもしれないと、今は思っている。 再度読んで良かった。この事を思い出せた事は嬉しい事だった。(実際は読み出してから気付いたのだが) まだまだ自分は、若い頃に自分に誓いを立てているのかもしれない。 今は何も思い出せないのだが、慎重に考えてみなければならんかな。 しかし本を読み返すとは面白いものなのだ。 元から、映画も本も何十回も同じところを行ったり来たりする人間ではあるが、私には大いに必要な事らしい。 当初「雨の中の庭」とされていた題名。 「ノルウェイの森」というのは村上さんが気に入っていなかった題名にも関らず、奥様の「いいんじゃないの、ノルウェイの森で」という一言で決まったというから、愛妻家ぶりが分かるってもの。 ノーベル文学賞、取って欲しかったような、良かったような。ファンは複雑だな。 ------------------------------------------------------------------------------------------------- 今は、39才のワシですが、38才のワシを思い出したい事があって 以前のブログを再録します。 |
![]() ワシは宮崎駿さんも天才バカボンも大好きですが、日本ではこういう映画やホラー、邪推な恋愛ムービーが全盛で、官能的な映画が減った事が寂しいですね。 昔はテレビ放送でも、特に松田優作さんや江戸川乱歩のドラマ、アニメでもルパン三世、コブラなど、意味なく会話の向こう側で絡み付く男女がいたり、ごく普通の生活として本能的な映像というのは随所にちりばめられていたもんです。 いまじゃ日本では、暗黙の了解で「子供の見るものでは無い」と切れ捨てられた映像。 AV映像に集約された官能的な映像は、ただの処理的映像になってしまった。 官能的表現というのはとても重要な、人間的、文化的表現だと思うんですよね。 なにしろ三大欲求の一つな訳で、無視して描く方が不自然な訳です。 これは「テレビ映画」という時代から「テレビドラマ」に移行してしまった制作人の思惑もあるんでしょうね。お茶の間に好かれたい「テレビドラマ」と職人の作った「テレビ映画」。 しかし、子供を盾にする制限がいまだに続くのは、いつも「ばっかじゃないのか」と思うんですよね。「子供の見るものでは無い」映画なんて無いんじゃないのかなと。 子供もいつの時代もどんな映画も理解出来ます。 残酷だろうが、官能的だろうが、ある一定の年齢までは見せてはならないなんて難しいよと。 異論は当然。親の言葉なら「あんたは親じゃないから」という、そうだと思います。 親がいる状態なら邪悪だと思っている映像から守ってやれば良い。それだけの事です。 子供がどういうショックを受けるかということと、必要な映像表現をカットしてしまうということとは別物です。 子供の頃ワシは官能映像を見ては、「これはワシらの世代が見てはいけないものかも」と薄々分かっていた。しかし、その覗き見が大人にさせる。 子供が理解出来ないなんて、とんでもないと思うんです。 かといって、ネットを介したAV業界のキャパシティは広がる一方で、闇の世界に放り込まれただけに映像の本質が悪くなっている。それは映像であって、制作されたドラマでは無い。確かにこれは子供の見るものでは無いかもしれない。 しかし、「大人の世界を覗き見した子供は、みんな悪なんですか?」と。 今テレビ界に流れる映像は、官能的映像を取っ払った事で、恋愛の清涼感だけで麗しき疑似恋愛ばかりを追い求めて、全くの真実の目が欠如しているように思える。 最近この目を払拭してくれるような、「人のセックスを笑うな」という映画も出ましたが、中身は恋愛映画。 本質的な欲求の映画は「汚い」と思われているのか、女優が脱げば大騒ぎする、日本の映画界のばかばかしさには飽きれるばかり。 女優さんだって脱ぐのを嫌がるし、それ以上に大企業のクライアントが付く女優には「やってはいけないこと」の大名目がついている。 昔は岡本麗さん、根岸季衣さん、と素晴らしい役者さんが、かっこ良く脱いでくれたものですが、そんな場も無いのだから、かっこよく脱げる人がもはや居ないんでしょうね。 脱ぐ人だって必死です。親や家族の前で裸になるも同然で必死の思いで脱いでいたはず。 その重みは映画の中で充分に伝わっていた。 脱げと言っているのではありません。必要性を削除するなと思うんですよね。 |
![]() 中学で寺山修司に取り憑かれたワシ。 思考論法的なパラドックスな映画作り、分かり易く言えば「訳の分からない映画」は、 好きなはずなのに「INLAND EMPIRE」だけは気を失った。 この系の映画を理解しようとして見ないことが、観客の有り様で。 映画監督のやりたい事は見正す。 感じた事の無い官能的な感情に身を任せ、疑わない。世界観に入り込む、深く深く。 観客が終演後、コントロール出来ない不快な感情を持ち帰る事までをも計算されている。 そういうものなのだ。 ところが、ものの20分で熟睡。 「これは彼のLSDのやり過ぎに寄る後遺症パラドックスだなぁ」と思った途端に、 最後10分前まで寝てしまった。 それでも大体内容は分かったし、こっちが寝る事も予定に入ってた?なんて気もして来て。 そういう計算だったのなら、すごいなと(笑) ちゃっと話がズレるんですが、デビット・リンチの映画って 幻覚に近い感覚のシーンが、よくちりばめられてますよね。 でも「幻覚」ってなんなんだ?と。 見えているモノは現実で、実際に見えないモノは現実では無い? これはその人にとっては嘘であって。見えるモノはリアルな全部現実なわけで。 誰にでも自分にだけしか見えない現実があって。 遠からず彼はその世界を描きたいんだろうなというか。 あとは好きか嫌いかの問題で、今回はワシには面白く無かったと。 良くも悪くも、作りがヨーロッパ的というか。 カンヌ映画祭的思考の影響かと思うのですが、芸術感と威厳感たっぷりというかなんというか。 悪くは無いけれど、デヴィット・リンチってアメリカの匂いが合う人なので、 そこは物淋しさを覚えたかもですね。 しかしながら映画作りでは間違いなく改革維新派。そこはやっぱすごい。 でも黒澤明監督の最後の作品の「夢」に感覚的に良く似ていて、 デヴィット・リンチも、もう監督辞める気なのかなとは思ったかな。 余談で。裕木奈江さんは、今回ベタベタの日本語英語で延々喋り続けるのですが、 日本人は「日本人英語」で世界進出させた方が面白いのかもなと。 |
![]() ワシは料理がメインで出てくる映画は必ず見る訳ですが。 料理が美味しそうな映画と聞いて今思い出すのは、 「初恋の来た道」「ディナーラッシュ」「バベットの晩餐会」「レミーのおいしいレストラン」 「たんぽぽ」「ショコラ」「恋人たちの食卓」。 シーンだけで言うと、 「千と千尋の神隠し」の千尋が大粒の涙を流して食べる、デカイおにぎりとか、 「アメリ」のアメリがホットワインに浸けて食べるクッキーとか、 「ゴッドファーザー」のソフィア・コッポラがニョッキを作ってるところとか、 「マリーアントワネット」のマリーがおやつに食べるマカロンとか、 「ノッティング・ヒル」の恥ずかしかった事を言い合う食事会でのブラウニーとか。 「ツインピークス」のチェリーパイやドーナツなんか全般的に美味しそうだなとか。 これらがワシとビットちゃんの「美味しいお薦め映画」ということで。 最近では「マイ・ブルーべリー・ナイツ」の捨てられるパイ達も美味しそうでしたね。 で、「幸せのレシピ」も見てみたと。 キャサリン・ゼタ・ジョーンズがどうだったとか、色々有るんでしょうが…、 料理がとても美味しそうだったと。内容は省くけど面白かった。 印象的なシーンが、母を亡くした姪っ子が亡くなった母の墓にしがみつき、 「(母を)忘れそうなの…」と、たった一言いうシーン…。 大事な人を亡くされた方が書かれた脚本なんだろうなと。 小さい子が言うと、とてもとても悲しいセリフで…。これ一発で持ってかれた感が漂よいました。 でも最後は「美味しそうやったな〜」で終わった感じですかな。 「美味しい映画」って誰しもあるもんですよね。 |
![]() 仕事のお供として最適だった「とことん石ノ森章太郎」。 ビットちゃんの場合、解説の時に作業して本編が始まるとレンダリングを、という具合な一週間。この時間帯が終わると物足りなくなり、そのまま頭の栄養補給の映画の時間が定番に。 時間の無駄!か、素晴らしい!の二局化ですが、印象深いモノだけを書こうかと。 「PAN'S LABYRINTH パンズラビリンス」。ギレルモ・デル・トロ監督。 ネタバレなので、見てない方は読まないで。 「ヘルボーイ」などの監督さんらしいのですが(見たけど覚えていない、ってことは良く無かった作品です)、ハリーポッターのオファーを断ってまでやりたい映画を追求する姿勢の方のようです。イバナ・バケロちゃんの可愛さだけが伝えられて、映画の中身は隠されてましたよね。映画賞をいくつも取った名作と呼び声高く、ワシも期待していました。 不思議なマトリックスを編んで作り上げた名作。良かったです。 見終わって尚その意味を考え込んでしまう秀作だった。 正直なところ、ワシは昔からスペイン映画って官能的で素晴らしい感性だって思う一方、蔓延している暴力描写は耐えがたいモノも中にはあって。 この映画でも暴力シーンは実際ヒドかったんですが「これは映画なのだ、映画なのだ」と念じながら見ないと、何度も目を覆ってしまいそうになった自分を戒めながら。 それは必要なシーンな訳です。 人間は感動出来る動物で、映画というのは感性に訴えられる素晴らしい手段なんですよね。 戦争映画であってそうでは無い。 誤解恐れず言えば、絶対的精神の確率の為に子供も見た方がいいと思います。日本では許されないだろうと思いますが。 映画の世界は事実とは違う。違うんだと。ここを私たちは理解しないと、と思うんですよね。 劇中で「悪いと分かっているのに、心の中の事に従えない者は臆病者だ」というセリフ。 これが言いたかったんだろうなと、しみじみ思います。 ワシも好きな「トーク・トゥ・ハー」のペドロ・アルモドバル監督は「孤独」を描く才能がピカイチ。 この人も含めて、ダリ、シビラなどなど。スペインは奇才を作る土地。 何かが呼ぶんだろうなと。 |
![]() ロバート・ロドリゲスとクワンティン・タランティーノの「グラインドハウス」と称された、「アメリカB級映画館」の良き日を振り返るというかなんというか。 ワシが中学校三年から通った、京都の「京一会館」はもう潰れてしまったが、三本立てが当たり前だった。 一本目が「寺山修司:若者よ書を捨て街に出よ」、二本目が「ポルノ」、三本目が「清水邦夫:あらかじめ失われた恋人達よ 監督:田原総一朗)という具合で、二回目上演の時にはワシは追い出されたという訳ですな、ポルノだから。 二回目になると商店街をうろついて、三回目になると戻るという感じで。 館内の席は所々無いわ、ゴキブリは這い回るわ、おっさんは酒臭いわで、今考えるとよく制服で入れたもんで。京都府内の学校をさぼっては、市内の北の果てまで電車とバスで乗り継いで見に行っていたアングラな自分に呆れますな。 で果たして「グラインドハウス」というのはそういうところ。(詳しく知りたい方は下記英文を) 「プラネット・テラー」をロバートロドリゲス、「デス・プルーフ」をクワンティン・タランティーノが監督しているのですが、ロバート・ロドリゲスはやはり奇才だなと。 恐らくは彼が撮りたかった映像を素直に繋げるとこうなったというか、例えば「双子のメキシコ人が口汚く罵り合っているところを撮りたかった」「エロティックなストリッパーの足はマシンガンであって欲しい」などと、北野監督の「監督ばんざい」にも似た主旨と言うか。 やはり映画監督は一度は自分の好きな映画を撮らないといけないなと。 「シンシティ」では、フランク・ミュラー作品への肩入れが強過ぎて奇をてらった感覚が、自分の感覚だとここまでになるのかと。 一種昔のB級映画の何でも有りというか、「PG-12なんか糞くらえ」という感覚もあったと思うのですよね。 ワシもあんなルールがあったって、子供の人間性は一緒だと思うもの。 避けて通ったって意味が全く無いよと。 かなりの悪のり映画なので、気分が悪くなりたく無い方は見る事をオススメしませんが、やっぱりロバート・ロドリゲスは天才だと。ワシはタランティーノよりも好きかもな。 (下記グラインドハウス二本立ての説明文です) A double-bill of thrillers that recall both filmmakers' favorite exploitation films. "Grindhouse" (a downtown movie theater in disrepair since its glory days as a movie palace known for "grinding out" non-stop double-bill programs of B-movies) is presented as one full-length feature comprised of two individual films helmed separately by each director. "Death Proof," is a rip-roaring slasher flick where the killer pursues his victims with a car rather than a knife, while "Planet Terror" shows us a view of the world in the midst of a zombie outbreak. The films are joined together by clever faux trailers that recall the '50s exploitation drive-in classics. |
![]() 資料探し以外で、久しぶりに純粋に遊びにジュンク堂に行った。 ワシが「攻殻機動隊1.5改訂版」「のだめカンタービレ20」。ビットちゃんが「銃夢11」「銃夢外伝」と新刊コミックを買う。 メープルラテを買って帰りゆっくりと飲みながら読もうとしたら、家に戻った途端に突如倒れ込んで寝入ってしまった。 起き上がってすぐに「マイ・ブルーベリー・ナイツ」の CM を見てギョっとした。なだぎと友近の二人が真面目にナレーションしてるよ、おいおい。 監督はウォン・カーワァイで、今年初めての一押しミニシアター作品。 なだぎと友近がどうのじゃなくて、このCMじゃウォン・カーワァイを知らない人は見に行こうと思わんよ。「ブエノスアイレス」が映画として知名度が無いんだろうけど(「2046」の監督でもある)あれを撮った監督なんだから、もっと彼の映像美をアートに素直に宣伝すりゃええのに。 あらすじばっか言い過ぎるのが日本映画のTV SPOTの特徴なんでしょうね。ヒドくなると予告編で最後の秘密まで言うし。「パヒューム」の予告編にはコケたもの。 儲けたいのか、その気が無いのか、中途半端なCMだと思うな。 「ふざけやがって」と呟いたが、また睡魔が襲ってその後の記憶無く、グッタリとソファに埋まったらしい。 そしてなぜなのか、15年前に東京ドームの三列目で女子プロレスを見た時を思い出した。 ワシの目の前に座る大騒ぎする、7.8人のニューハーフ共の壁、壁、壁。 遠路はるばる大阪からやって来て疲れ果て、せっかく買った三列目も、デカいバカ女どもに壁を作られ騒ぎ立てられ、我慢というスイッチさえ無くなったワシは 「見えね〜んだよ、このオカマども!お前らみんなデカ過ぎんだよ!」と思わず叫んでしまった。 一人のニューハーフが振り返り「はっきり言うわね、このバカ女!」と言ったが早いが、優しいニューハーフが「よけてあげればいいじゃないの、止めなさいよ」と取りなした。 あいつ…いい女だったなぁ。 何故いまこの事を思い出したのか。 ワシのこういう思い出し方は、いつも何かと関係がある。なにが起こるのか? ドラッグクイーンの仮装大会でもあんのやったら出たいな、それ。 |










